第8回 早熟の映画監督、ルイ・マル

今回は、少し映画史的な部分も含めての考察からはじめたい。1950年代後半、映画史上最大の事件がフランスで起こった。ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロルなどの映画評論家たちが、既存の映画製作法に一石を投じる形で、続々と作品を発表したのだ。彼等の映画には、既存の映画ではあり得なかったテクニックが全編に使われ、映画界は根底から揺るがされる形となった。俗にいう、「フランスヌーヴェル・バーグ」である。彼等、ヌーヴェル・バーグ(「新しい波」の意)の旗手たちは、ロケーションの使用、手持ちカメラの多用、自由気ままな編集などで、従来の「型」にはまりきっていた映画製作を否定したのである。極端にいえば、現在の自主製作映画のハシリだったと考えてもらえば分かりやすいかもしれない。そのヌーヴェル・バーグ派の一人、ルイ・マル(1932~1995)を今回取り上げる。

ルイ・マルはヌーヴェル・バーグ派の一人としてみなされることが多いが、私は、彼をいわゆるヌーヴェル・バーグの監督だとは思っていない。理由はいくつかある。まず、他のヌーヴェル・バーグ監督(特にゴダール)が行ったような既存映画の積極的否定を、マルは全くといっていいほどしていない。さらに、どちらかというと彼は既存の映画製作法を自分の中でうまく吸収し、発展させていったような印象を受ける。それは彼のデビュー作「死刑台のエレベーター」(1958)に見られる、従来のフランス映画の匂いを醸し出すような、クラシックで、流れるような描写からも見て取れる。では、なぜ彼がヌーヴェル・バーグ派とみなされるのか?それは、単に「時期」的なものによると思われる。デビュー時期が他のヌーヴェル・バーグ監督たちと同じだったことで(さらに彼等とマルの間に密な交流があったことも関係しているが)、彼のデビュー作に見られた特徴と関係なく、彼も一括りにされてしまったのだろう。マルがヌーヴェル・バーグか否かについては諸説あるが、そのような映画史的な考察を抜きにしても、彼が他のヌーヴェル・バーグ監督たちと一線を画していたのがデビュー作「死刑台のエレベーター」からはっきりとわかる。ゴダール、トリュフォー、シャブロルらとは比較にならないほど、洗練されているのだ。「未熟さ」を開き直って宣伝したヌーヴェル・バーグとは反対に、マルは最初から堂々たる「大人」の映画監督であった。

「死刑台のエレベーター」は間違いなく犯罪映画の傑作であり、恋愛映画の傑作であり、同時に青春映画の傑作でもある。マイルス・デイビスの即興ジャズにのせて進む、社長夫人と社員との恋、社長殺害後の緊迫した脱出シーン、その殺人に絡むもう一組の若者カップル、そして最後のはっと息を飲むような仕掛け・・・どれをとっても一級品で、映画でしかできない表現であった。映画でしかできない表現、それは、この映画に見られるような頻繁に起こる「舞台推移」(殺人事件は様々な場所に飛火する)、そして数本になる「時間軸」(主に二組のカップル、それぞれの時間軸)のことをここでは指す。例えば、これを舞台で演じたらどうなるか考えてみよう。あまりにも頻繁に起こる「舞台推移」は当たり前の如くセッティングの交換を頻繁に強い、その交換に割かれる時間によって話のもつ「時間軸」の重要性が歪曲され、リズムとハーモニーが崩されてしまう。では、セット交換、つまり「舞台推移」を省略してやってみるのはどうか?なるほど、俳優の交代によって「舞台推移」は予測できるため、そうすれば確かに「時間軸」の操作はスムーズにいき、全体のまとまりとしても悪くないかもしれない。しかし、この話のように「舞台そのものが話法になる」、つまり舞台自体が話の内容に重要な意味をもち得る作品では、「舞台推移」は決して無視できない要素なのだ。「舞台推移」と「時間軸」の両者が作品にとって重要な意味をもつ場合、それをうまくまとめることができるのが、舞台にはない、映画のみがもち得る「編集」という技術だ(私は「舞台と映画の違いは何か?」という問いには、必ず「編集」と答える。よって編集を上手に活用していない、「舞台劇的映画」はあまり好まない)。映画の編集技術を巧みに利用し、マルは「死刑台のエレベーター」に息を吹き込み、そして彼が「映画は編集で成り立つ」と理解していた事実こそ、彼が如何に早熟の「大人」の映画監督であったかを如実に示していると思う。

マルは早熟の監督だったが、「死刑台のエレベーター」のようなクラシック路線だけに突き進まず、実験精神もまた旺盛であった。「地下鉄のザジ」(1960)では、少女ザジの目を通してパリをポップに描き、どこか懐かしい、しかし新しいドタバタ喜劇を完成させている(ファッション関係に興味のある方にはお勧め)。彼のバラエティに富んだその才能は特筆するに値する。

しかし、やはりマルの根本は、重い、暗い、胸が締めつけられるような「大人になりきれない大人」の描写だったように思われる。それは「死刑台のエレベーター」における二組のカップル然り、ドリュー・ラ・ロシェルの小説を映画化した「鬼火」(1963)におけるモーリス・ロネ演じる青春にしがみつき続ける中年男性然り。彼が、この「大人になりきれない大人」を描くことにこだわったのは、「大人」の映画監督であると思われていた彼自身が、実は、あまりの早熟さ故に「大人になりきれない大人」であった、そのことに対する彼の苦悩の裏返しではないかと、私にとっては思われるのだ。

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