参考文献:高々合唱部小史 ~知られざる過去~

by 新生合唱部初代部長 下田
この文章は初代OBの最後の文化祭(2000)のときのパンフレットに部の説明として載せたものです。

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高々合唱部の現三年(初代OBのこと)が高々に入学した当時、合唱部はそれはもうショボい存在だった。僕が入部届けを出した当時は部員が三年生四名、しかも全員が複数の部活に兼部といった状態だった。
しかしよくよく先輩に話を聞いてみると、こんなのはまだ序の口だという事が分かった。歌を歌うのは年に零回、部員全員が集まるのが年に一、二回、部室がない、構内の誰も部の存在を知らない(職員、事務を含む)、部費は四桁、新一年生が入部しなければ即刻休部という、揚げ連ねればいくらでもこういった事態が出てくるといった、言ってみればどん底の状態だった。

しかし、そんな状態の合唱部にも容赦なく六月の第一週は襲ってきた。六月の第一週といえば、言うまでもなく高々の文化祭、翠巒祭の季節である。当時の僕らに歌を歌える力量があろうはずも無く、かといって学芸部として存在している以上何もやらないわけには行かず、苦し紛れの企画「大イントロクイズ」をやった。しかし、使った機材がラジカセ一台とテープ一本、総予算数千円という壮絶なこの企画に対する世間の目はそれはもう壮絶なもので、「合唱部?ププッ!」といった侮蔑の声が翠巒祭が終わった校内のそこかしこに散らばっていた。
そして翠巒祭二日目終了と同時に三年生四人はいともあっさり引退し、後には僕、伊藤、田中の一年生三人(当時)が部に取り残された。成り行きで僕が部長を務めることになった。そして三人は翠巒祭の華やかさがむなしく残る講義室で後片付けをしながら語った。「こんなのイヤだ」と。何がイヤかというと、つまり「歌わない合唱部」がイヤという事だ。そして、その六月から三人は、本来部としてのメイン活動であるべき合唱を始めるべく、「新生高々合唱部」を旗揚げして、もぞもぞと蠢動を始めたのだった。
しかし、三人で合唱をしてもロクな合唱になるはずもなく、自然と「まずは部員集めだ」という結論に達した。そして決死の覚悟での勧誘活動の結果、二人の部員をやっとの事で確保した。しかし、当時の彼らはまるっきりと言っていいほどやる気がなかった。

そんなこんなでゆるゆると日々を送る高々合唱部に一つの転機が訪れた。前橋高校の音楽部さんから「一緒に練習しない?」とお誘いがかかったのだ。
そして高々合唱部の部員代表三人は、前高に乗り込んだ。そこでボッコボコに打ちのめされた。彼らの歌を聴かされたのである。「うめぇ…」と心の底から思った。つまりはレベルの差が格段にあったのだ。片方は週に最低でも四回は集まって練習をしている部、もう片方は週に最高でも二回集まって、「部員ふえねぇなぁ」とぶつくさ言っている部だったのである。
この第一次前高遠征が強烈な起爆剤となって、新生合唱部の部員は前高で貰ってきた楽譜(お金がないので)で練習を開始した。この頃はまだ練習のたびに視聴覚室をを借りていたので、そこの鍵を借りるたびに、事務の方に「ん?合唱部?…あったの?」などと言われる屈辱を甘んじて受けていた。それでもへこたれることなく、夏休みも入れつつ練習を地道に続けていった。

そんなときに合唱部に次の転機が訪れた。前高音楽部さんが、「前橋女子高校音楽部さんと合同練習をやるので、高々さんも一緒にどう?」と、三校合同練習を提案してくれたのだ。新生合唱部は、願ってもない話とすぐに飛びついた。そしてポンと渡されたのが「わたしの季節」だった。これは後述する昨年(1999)の県総合文化祭で発表した曲だが、当時の我々には激しく荷が重かった。なぜかって「わたしの季節」はタイトルだけ聞けば一曲だけだが、その実は四曲構成なのだった。男声二部を一曲こなすのにヒーヒー言っているのに、一気に混声四部を四曲も渡されたのである。しかし、この曲は我々にとっては、辛かったという意味でも、いい経験になったという意味でも、とても思い出深い曲になった。

そうこうしているうちに新一年生も入って、新生合唱部になって初めての翠巒祭(1999)の構成を寝る時期になった。部長も僕から伊藤に代がかわり、ここで新生合唱部は今まで合同練習をやってきた前高・前女を招待しようと、両校にオファーを出した。返答は、前高○、前女×といった内容だった。それなので、我々は前高さん、渋高さんとの合同ステージを挙行した。このときに、宣伝を目的に野外で数曲歌を披露したら、これが結構好評で、後の来校者アンケートでも「合唱部の野外コンサートよかった」というコメントがいくつも見られたほどだった。

翠巒祭も終わって一息ついていた我々のもとに、県総合文化祭の出演依頼が届いた。これは合同練習を行っている高々・前高・前女・渋高の四校で、合同で何曲か歌ってほしいという物だった。県総合文化祭といえば、運動部の高校総体と同じ列に語られてもいい大イベント、そのステージに我々のようなぽっと出の部が参加していいのだろうかという思いが一瞬頭を掠めたが、ものは経験ということで参加させてもらった。県民会館の大ホールで歌った経験はとても貴重なものとなった。

ここらでちょっと疑問に思う人もいると思う。「いつの間にそんなにビッグになったの?」と。確かに最初は三人だったが、部員の増加は算術級数的な増え方をして、最終的に今日のステージ(2000年翠巒祭)を迎える時には20人という大人数(?)にまで達していた。
話がそれてしまったが、県高校総文祭が終わった頃には、新生合唱部は高々の学芸部の中でもかなり活動的な存在になり、その名を知らない人は全校の約半分くらいになっていた。
そして秋も過ぎて、冬の足音が聞こえる季節になっていった。「冬といえばクリスマスだよね」という安直な思いつきから、高々吹奏楽部と合同で、高女音楽部さんも招待してクリスマスコンサートを行った。

クリスマスコンサートが終わって少ししてから、三年になっていた創立当初のメンバーは「退き方」というものを考えるようになっていた。どう一線から退くか…。これが三年生に残された最後の課題だった。引退とはすなわち翠巒祭、翠巒祭のステージをどうするかを、三年生は相談した。そして、今自分達にできる最大のステージがどのようなものかという事を考えたとき、一昨年の翠巒祭、昨年の翠巒祭が我々の脳裏に甦ってきた。一年のときの「歌わない合唱部」、二年のときの「初めての自分達のステージ」…そして三年は、と考えると、それは必然的に「新生合唱部初期三年間の集大成」でなくてはならないという事が思い浮かんだ。
…そこで今年の翠巒祭では、昨年同様の前高・渋高に加え前女の音楽部を招待し、今までにない規模での壮大な混声合唱を企画した。「三年間の集大成」を感じて頂けたらこれに勝る幸いは無い。

最後に、前高の山田先生、前女の新先生、渋高の石津先生、われらが顧問の丸橋先生、前高・前女・渋高音楽部の各部員の皆さん、そしてこの乱筆拙文に最後までつきあって下さった皆さんに、心からお礼を申し上げます。

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